ハリー・スミス・パークス
| 1866年7月27日(慶応2年6月17日)来園 |
「その納涼殿(仙巌園)を見ると、前は港に面している・・・納涼殿において、家老による饗応があった・・・実に驚くべき饗応だった・・・この庭園の景観の素晴らしさは言葉に表すことができず、どの人も一度ここに訪れると、3年は逗留したくなる思いに駆られるだろう」
(横浜新報訳 、『忠義公史料』(第四巻収録)を現代語に訳し、適宜、意訳しました) |
「1866年7月27日(旧暦6月17日)、英国蒸気軍艦プリンセス・ロイヤル、サーペント、サラミスの3隻が鹿児島の港に入港した・・・国主ノ泉水(仙巌園)を見ると美麗を極めており、この泉水の隣には製鉄所(集成館)がある・・・ガラス器(薩摩切子)を製造しているが、その技巧は優れ、日本の中で、将来、製造物に長じていくのは薩摩であることは明白である・・・今でさえ、その作品のいくつかは、ヨーロッパの博覧会に出展しても恥ずかしくないほどの出来映えである」
(「英国ミニストル ハルリ・パークス及び同国水師提督薩州侯訪問記」(『忠義公史料』第四巻収録)を現代語に訳し、適宜、意訳しました) |
パークスは、慶応元(1865)年に駐日全権公使に就任した幕末期のイギリス外交官です。
文久3(1863)年、薩英戦争の講和が成立すると薩摩藩とイギリスは急速に接近し、親密な関係を築きました。慶応2(1866)年6月にイギリス公使パークスが鹿児島を訪問したのは、その象徴的な出来事です。薩摩藩の国父島津久光(斉彬の弟・忠義の父)と島津忠義(29代当主)は、パークス一行を仙巌園に招き、初日は日本料理、翌日は洋食料理で歓待しました。
また、仙巌園は、後年のイギリス紙において、以下のように紹介されています。
「この田舎の大きな邸宅(仙巌園)は、薩摩閣下が夏の晴れて暖かい気候の中で家庭的な慰安を持つという、大変、よい考えを持っていることを示している。日本人は園芸が好きで、相当の技巧を弄(ろう)している。魚のいる池、築山、入り組んだ生け垣、それに変化に富む石を使った石畳、これらは普通この国の幾つかの有名な自然の風景を模倣して作った丘や森とともに、程よい広さの庭園の中に取り入れられているが、いずれも訪問者には興味ある見物となるのである」
(『THE ILLUSTRATED LONDON NEWS (絵入りロンドンニュース)』1867年 2月 2日) |
アーネスト・サトウ
| 1867年1月3日(慶応2年11月28日)来園 |
| 「私たちは上陸して、磯にある藩主の庭園にほど近いガラス工場、弾丸工場、大砲鋳造所、鍋釜製作所などを視察した。」(『一外交官が見た明治維新』) |
イギリス公使を務めたアーネスト・サトウは各地の政治情報を収集するため西日本の諸藩に派遣され、1867年に磯を訪れました。サトウは鹿児島城や集成館を訪れ、仙巌園も垣根越しで見学しました。後年、サトウは鹿児島訪問では美しい庭を外部から覗いた記憶しかないと、日記に書き記しています。
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