トップページ > 仙巌園とは(3)  

仙巌園とは(3)

名勝 仙巌園[磯庭園] |個人情報保護方針

 

外国人が見た仙巌園
幕末・明治の日本をリードした薩摩・鹿児島には、多くの外国要人が訪れ、仙巌園にも立ち寄っています。仙巌園は、島津家当主が外国要人を饗応・接待する迎賓館としての役割も持っていました。
ヴィレム・ヨハン・コルネリス・ホイセン・ファン・カッテンディーケ

1858年6月26日(安政5年)来園
「我々がこの屋敷(仙巌園)に入った刹那、その余りの風流と手入れの行き届いているのに我と我が目を疑った。庭草は綺麗に刈り取られ、歩道には小石が敷かれてある。四方に美しい花が咲き乱れ、流れに通じる自然の滝や噴水がこしらえてある」(『長崎海軍伝習所の日々』)

カッテンディーケは、1857年に来日したオランダ海軍士官です。徳川幕府が購入した「ヤーパン号(後の咸臨丸)」を長崎に回航して「長崎海軍伝習所」の教官長になりました。
上記は、安政5(1858)年に、勝麟太郎等とともに咸臨丸で鹿児島に訪れた際の記述です。当時の薩摩藩主島津斉彬(28代当主)は、彼等を仙巌園で接待し、望嶽楼で会談しています。
※『斉彬公史料』より

ポンペ(ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト)

1858年6月26日(安政5年)来園
「市外に出て工場も見学したが、これは侯(島津斉彬)自身が建てたもので、われわれをいたく驚かした。ここでは大仕掛けにいろいろな工業が営まれていた。いろいろな種類と色彩をもったガラスを吹いたり磨き上げたりしていて、その間たえずその実験も続けられていた。いずれも不断の進歩を期してのことである。高炉のある溶鉱炉、これに連絡する鋳造工場、ここでは信じられないほどの重量の鉄材がつくられる。広大な鉄工所、磁器や陶器のための工場、大砲や銃器を製造するための特別な部門、大砲鋳造所、それに鉄板製造場がフルに作業していた。」(『日本滞在記』)

軍医であったポンペはカテンディーケとともに鹿児島を訪れました。桜島の周囲を散策したポンペは「豪華このうえない渓谷には、姿さまざまな藪蔭や姿やさしい小川、それにふさわしいこぎれいな農村が点々と散在」していることを記し、エデンの花園にいるかのような思いになったと回想しています。また、島津斉彬が興した集成館事業を大絶賛し、「まもなく日本全国のうちでもっとも繁栄し、またもっとも強力な藩になることは間違いない」と予言しています。

ハリー・スミス・パークス

1866年7月27日(慶応2年6月17日)来園
「その納涼殿(仙巌園)を見ると、前は港に面している・・・納涼殿において、家老による饗応があった・・・実に驚くべき饗応だった・・・この庭園の景観の素晴らしさは言葉に表すことができず、どの人も一度ここに訪れると、3年は逗留したくなる思いに駆られるだろう」
(横浜新報訳 、『忠義公史料』(第四巻収録)を現代語に訳し、適宜、意訳しました)

「1866年7月27日(旧暦6月17日)、英国蒸気軍艦プリンセス・ロイヤル、サーペント、サラミスの3隻が鹿児島の港に入港した・・・国主ノ泉水(仙巌園)を見ると美麗を極めており、この泉水の隣には製鉄所(集成館)がある・・・ガラス器(薩摩切子)を製造しているが、その技巧は優れ、日本の中で、将来、製造物に長じていくのは薩摩であることは明白である・・・今でさえ、その作品のいくつかは、ヨーロッパの博覧会に出展しても恥ずかしくないほどの出来映えである」

(「英国ミニストル ハルリ・パークス及び同国水師提督薩州侯訪問記」(『忠義公史料』第四巻収録)を現代語に訳し、適宜、意訳しました)

パークスは、慶応元(1865)年に駐日全権公使に就任した幕末期のイギリス外交官です。
文久3(1863)年、薩英戦争の講和が成立すると薩摩藩とイギリスは急速に接近し、親密な関係を築きました。慶応2(1866)年6月にイギリス公使パークスが鹿児島を訪問したのは、その象徴的な出来事です。薩摩藩の国父島津久光(斉彬の弟・忠義の父)島津忠義(29代当主)は、パークス一行を仙巌園に招き、初日は日本料理、翌日は洋食料理で歓待しました。
また、仙巌園は、後年のイギリス紙において、以下のように紹介されています。

「この田舎の大きな邸宅(仙巌園)は、薩摩閣下が夏の晴れて暖かい気候の中で家庭的な慰安を持つという、大変、よい考えを持っていることを示している。日本人は園芸が好きで、相当の技巧を弄(ろう)している。魚のいる池、築山、入り組んだ生け垣、それに変化に富む石を使った石畳、これらは普通この国の幾つかの有名な自然の風景を模倣して作った丘や森とともに、程よい広さの庭園の中に取り入れられているが、いずれも訪問者には興味ある見物となるのである」       
(『THE ILLUSTRATED LONDON NEWS (絵入りロンドンニュース)』1867年 2月 2日)

アーネスト・サトウ

1867年1月3日(慶応2年11月28日)来園
「私たちは上陸して、磯にある藩主の庭園にほど近いガラス工場、弾丸工場、大砲鋳造所、鍋釜製作所などを視察した。」(『一外交官が見た明治維新』)

イギリス公使を務めたアーネスト・サトウは各地の政治情報を収集するため西日本の諸藩に派遣され、1867年に磯を訪れました。サトウは鹿児島城や集成館を訪れ、仙巌園も垣根越しで見学しました。後年、サトウは鹿児島訪問では美しい庭を外部から覗いた記憶しかないと、日記に書き記しています。

ニコライ2世(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)

明治24(1891)年5月6日来園(皇太子時代)
「鹿児島近くの美しく深い湾の一隅に投錨した・・・鹿児島は驚くほどさっぱりした町である。・・・公(島津忠義)は庭(仙巌園)に出て、我々を出迎えてくれた。公は日本の古い甲胄をまとった170人の老武士に囲まれていた。小さな植木や小さな池、小川や小さな橋、その他の日本人の得意な手の込んだ造作がある素晴らしい庭を通り、天幕に入った・・・御殿に着き、靴を脱ぎ、スリッパを履き、手を洗った。理想的な清潔さである。部屋の中はすべて竹で造られている・・・ごく薄い壁に障子・・・4時に広間に座り、古式に則る日本料理の夕食会が始まった。ロシアでも、いつでもこういう夕食をとりたいものだ・・・薩摩公の邸から見た、湾に停泊中の艦隊の景色は美しかった」(『ニコライ2世の日記』)

明治24(1891)年、帝政ロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)は、ウラジオストクで行われるシベリア鉄道起工式に参列する途中、日本を訪問し、鹿児島にも立ち寄りました。島津忠義は、ニコライ皇太子と従弟ゲルギオス(ギリシア王子)を仙巌園に招待し、嫡男忠重(30代当主)が先導する武者行列で歓迎し、忠義自身も犬追物を披露しています。

コンノート殿下(アーサー・ウィリアム・パトリック・アルバート)

明治39(1906)年3月3・4日来園
「十時四十分上陸、島津忠重公爵、千頭知事以下市長等の奉迎を受け、沿道奉迎の歩兵二ヶ中隊や市民の日英両国旗の間を縫って磯の島津邸に着かれた。昼食の後、殿下は赤十字社鹿児島支部病院に成らせられ、帰途少年武者扮装行列、撃剣源平野試合、棒踊、娘剣舞等に興じて磯邸に帰り、夜はまた娘手踊、薩摩琵琶等の余興あり、...(翌四日、南洲墓地や照國神社、西郷大久保誕生地などを廻った後に)かくして磯邸に帰られ、島津公爵を初め、知事・市長其他の贈品を受け、しばし休憩の後、午後四時磯邸御出門」(『鹿児島県史 第四巻』)
「磯邸には当時女児の祝日である三月節句の日であったので、鹿児島市内名家の子女十数名を盛装したいでたちで集めてあり、ついで書院で数名の琴の演奏が始まり、まず英国国歌と君が代とを奏し、つづいて六段の調べが演奏され、まことになごやかな空気に満たされた。それが終わって夕食までの時間が何もないので、私は殿下に庭内の散策をお勧めしたところ、ただちに快諾されたので、いろいろ雑談を交わしながら、山道を花倉まで行って帰ってきた...(中略、3月4日は)さらに例の望嶽楼から下の広場で行われた薬丸流の武技であったかを見られたうえ、いよいよ磯邸を辞して帰艦せられる...」(島津忠重『炉辺南国記』)

明治39(1906)年、日英同盟を受けてイギリスから明治天皇に同国最高勲章であるガーター勲章が贈られることになった際、コンノート殿下は使節として日本を訪れ、途中仙巌園に来園しました。鹿児島へは日清・日露の戦いの時に鹿児島出身者が重要な役割を果たしたことなどから訪れたといいます。島津忠重(30代当主)は当時、江田島の海軍兵学校に在学中でしたが、異例の措置として鹿児島に赴いてコンノートを接待しました。

エドワード8世(ウィンザー公爵)

大正11(1922)年5月9日来園(皇太子時代)
「磯島津公爵邸では本日午前11時56分殿下の自動車が到着すると、集成館跡の陳列場門前にて公爵代理康久氏、東郷元帥、樺山・大久保両委員等殿下を迎え公爵代理の先導にて場内を御巡覧する。夫より公爵代理、東郷元帥は自動車にて錫門下に先着殿下を御迎えして、望嶽楼に御案内申し上げてから、ここにて島津家一文の方々に拝謁を給う。それが終わると庭園を御覧になり、0時30分に御食事をとらせられてから、再び望嶽楼において御休憩される。続いて町田忠熊氏の天吹、芝笛、及び東郷流腰矢、薬丸示現流の武術等を御台覧になって、記念樹の御手植がある予定である。午後二時前に磯邸御退出になり、公爵代理、東郷元帥は共に桟橋まで御見送り申上る事になっている。」(『鹿児島新聞』大正11年 5月 9日付を現代語に訳しました)
「公爵代理島津康久が電信で御機嫌をうかがったところ、エドワード8世より『磯邸に於ける歓待は実に愉快で楽しかった』との意味の返答が磯邸に達した。」(『鹿児島新聞』大正11年 5月11日付を現代語に訳し、適宜意訳しました)

イギリス王室のエドワード8世は皇太子時代に、大正10(1921)年の裕仁親王(昭和天皇)の訪英の返礼として大正11(1922)年に日本を訪れました。当時、渡英中であった島津忠重はエドワードの出発時にイギリスにて挨拶をおこない、仙巌園では忠重に代わって弟康久が東郷平八郎らとともに接待しています。エドワードは照國神社や興業館を訪れた後、仙巌園と尚古集成館を見学しました。ちなみに翌年尚古集成館は正式に開館します。

1 | 2 | 3
個人情報保護方針  |  サイトマップ  |  お問い合わせ  |  利用規約・免責事項
Copyright (c)2005-2011 SHIMADZU LIMITED (Kagoshima) All Right Reserved.
これは(株)島津興業のページです。 本ページの全ての文章・画像の著作権は島津興業に帰属します。よって、無断で転載・複製することを禁じます。