島津家は、今からおよそ800年ほど前、源頼朝から島津荘の下司職・地頭職を与えられた惟宗忠久が島津を姓としたことにはじまります。のちに忠久は薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護職も与えられ、島津家の南九州支配の基礎を築きました。
在地の豪族たちは島津氏の支配に激しく抵抗しました。さらに一族の内紛もあって、16世紀前半には滅亡寸前にまで追い込まれましたが、15貴久その子16代義久・17代義弘が勢力を挽回させ、一時は九州の大半を制覇するまでになりました。しかし、1587年豊臣秀吉と戦って敗れ南九州に押し返され、1600年の関ケ原の戦いで義弘が西軍に属して徳川方と戦い、再び滅亡の危機を迎えましたが、巧みな外交政策でこれを乗りきりました。
江戸時代、島津氏は琉球王国を支配下に収め、72万石の領地を所有する外様大名となりました。琉球では、鎖国令が出された後も、幕府公認のもと中国交易がおこなわれ、薩摩へも海外の物資・情報が流入し続けました。このため、江戸時代半ばには「蘭癖」と称されるほど海外の情報文化に興味を示した25代重豪が登場しました。重豪は熱心に開化政策を推進し、薩摩の文化水準の向上を図るとともに茶道方の調所広郷を抜擢し財政改革をおこなわせて藩財政を立て直しました。