臨時休業のお知らせ
仙巌園・尚古集成館では、新型コロナウイルス感染拡大を受け、令和3年8月16日(月)~9月30(木)まで休業いたします。

北海道は、実に日本の宝蔵なり!

薩摩の殿様・島津斉彬が抱いた、北海道をひらく夢

北海道

島津斉彬の考え

鹿児島と北海道のつながり、というと、皆さまはどのようなイメージをお持ちでしょうか。
鹿児島の人に聞くと「北と南のつながり…デパートの北海道物産展には毎回欠かさず行く!」という回答がありました。確かに、北海道に美味しい食べ物や特産品が多いのは周知の事実ですね。

実は、これら北海道の産物に、早くから注目していた人物がいます。島津家28代当主・島津斉彬公(以下斉彬)です。

市来四郎の『斉彬公御言行録』の中に、斉彬の言葉として次のように出ています。

「蝦夷(北海道)は日本東北の咽喉(いんこう)、魯西亜(ろしあ)の関門にして、先年よりたびたび乱妨せしこともありたり(略)これを拒がんには兵力を用ゆるは下策なり、開墾して日本人種を殖し、日本の所領なるを分明にするときは、いかに強なる魯西亜もみだりに手を入るることあたはざるべし(略)ことに産物多く、昆布・数の子・鰯のたぐひ、その他発見せざる品も多きよし、間宮林蔵が経歴誌にも記せり、実に日本の宝蔵なり(略)開くについては、第一港の便・不便をはじめ、地味の善悪、産物の多少、品目などを取り調べ(略)田畠を開き、漁業を起し、木を伐りだし、金銀銅鉄を発掘し、そのほか未開のものを開くべし」

今回は、薩摩のお殿様である斉彬が、北海道を「実に日本の宝蔵なり」と讃えた理由について、簡単に説明します。

19世紀半ば以降、薩摩は大きな悩みの種を抱えてきました。それは、西欧諸国の植民地拡大をもくろむ足音が近付いてきたことです。

彼らの船は、16世紀のポルトガル人同様、インド・アラビアを経由して東南アジアから北上してきました。鉄砲を鹿児島の種子島に伝えた、ポルトガル人のルートです。日本の隣国では、アジア最強と目されていた中国(清国)が、アヘン戦争でイギリスに敗北しています(1840-1842)。

この情報は日本中に、そして南端の薩摩藩に、大きな衝撃を与えました。平易な言葉で表現するならば「次の植民地を選び、狙う船が、次は日本(薩摩)に来る」という恐怖を、切実に感じたということです。実際、アヘン戦争が終わった翌年の1843年、イギリスの測量艦が宮古・八重山等に来航、琉球王府の制止を無視して兵員を上陸させ、測量を強行しています。さらに1844年にはフランス艦、1845年にはイギリス艦、1846年にはフランス艦隊と、毎年西欧の船が藩領域に来航するようになり、薩摩藩はその対応に悩まされ続けました。

薩摩藩が、幕末にいち早く工場群を造り、武器製造や造船、諸制度改革に力を入れたことを「攘夷のため」と描く小説などの作品もありますが、実際は「日本の遅れを知り、西欧に並ぶ力を得るため」という意味合いが大きいのです。その証拠に、島津斉彬は攘夷を「無謀の大和魂の議論」と一蹴しますし、弟の久光も「順聖院様御深志」として、斉彬の理想を実現しようと動いています。(順聖院様は斉彬の法名)
 
斉彬は、藩主就任から亡くなるまでの短い間に、さまざまな事業を展開しました。そして、その視線は、薩摩藩内だけではなく、日本全体に向けられていました。それが冒頭の発言につながります。意訳すると

「南から来る外国に対しては、薩摩、長崎、佐賀が対応出来る。しかし、北のロシアはどうだろうか。これを防ぐには、兵力を用いても下策だ。蝦夷(北海道)の地を開墾して、日本人の営みをつくりだそう。北の地はすばらしい物産が多い。昆布や数の子、鰯など、他にも発見していないものも多い。まさに日本の宝の蔵である。(略)開くにあたっては、港の不便や、物産の味や量、品目などを調べよう(略)田畑を耕し、漁業をして、材木を切り、金銀銅鉄を発掘しよう」

ということを語ったのです。

北海道

明治に活躍した薩摩人

明治初期、北海道では大勢の旧薩摩藩士たちが活躍しました。

明治政府は、明治2年(1869)に北海道開拓使を置きました。初代長官は鍋島直正(前佐賀藩主、島津斉彬従兄弟)、2代は東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、3代は黒田清隆(旧薩摩藩士)、4代は西郷従道(旧薩摩藩士)です。開拓が本格化したのは、3代目の黒田長官の代からでした。

明治15年に開拓使が廃止されると、札幌県・函館県・根室県の3県と、北海道事業管理局が設置されますが、札幌県令は調所広丈(ちょうしょひろたけ/調所広郷の子)、函館県令は時任為基(ときとうためもと)、根室県令は湯地定基(ゆちさだもと)、管理局長は安田定則(やすださだのり)と、トップはいずれも旧薩摩藩士でした。薩摩で培われた知識と経験が、北海道の地で活かされました。

さらに明治19年に北海道庁が設置されると、初代長官を岩村通俊(旧土佐藩士、2代鹿児島県令)、2代長官を永山武四郎(旧薩摩藩士)、3代長官を渡辺千秋(旧諏訪藩士、3代鹿児島県令)と鹿児島ゆかりの人物が長官を務めました。

また民間でも、堀基(ほりもとい)や村橋久成らが活躍しています。彼らについては、尚古集成館本館に展示があるので、ぜひ足をお運びください。

現在のつながり

現在、鹿児島の小学生と、北海道の小学生を「歴史でつなぐ」交流授業がさかんに行われています。地理的に遠い、気候や文化の違う場所ですが、歴史的に強いつながりをもつ仲間として、博物館や大学の先生方が協力して授業を行っています。北海道では、日本遺産に登録された「炭鉄港」について書かれたパンフレット(北海道空知総合振興局作成)が小学生に配布されていますが、その中にも薩摩藩とのつながりについて解説がありました。

斉彬の「北海道は、実に日本の宝蔵なり」という考えが開拓につながり、薩摩藩士が多数活躍し、そして現代の北海道と鹿児島の小学生を結んでいると思うと、壮大な物語ですね。

小平田 史穂

尚古集成館学芸員
鹿児島大学法文学部卒業。放送大学非常勤講師 等
南日本文学賞詩部門受賞。鹿児島県文化芸術振興審議会委員

著作

『みんなの西郷さん』
『復刻版 炉辺南国記』尚古集成館、山形屋にて販売

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